介護 Ⅹ 認知症

介護 Ⅹ 認知症
一般に認知症になった人の 行動や言葉使いは 荒くなる。

もっとも一日中荒れている訳ではない。 それでは体力も気力も疲労困憊してしまうし 本人も愉快ではない、 母の場合も 一日の大半は静かにテレビを見ているか 物を食べているか 周りの人と話をしている。

 今の言葉で言うと "切れる”。  ある瞬間に 機嫌が悪くなる時がある。        その時は 何かを訴えたいのだろう  大きな声を出しながら、動く左手で車椅子を叩く、動く左手の力は強く(握るとしっかりと握り返す)、 何時間も 何日も 何十日も 叩かれ続けた車椅子の左の肘掛は ネジが抜け リベットが抜けて 危険な状態になってしまった。

 私有物なので修理はこちらでする。 先日 修理工具を持って 昼寝をしている間に行ってきた。  リベット穴を開け直し 数を増やしてタッピングスクリュウを入れた(ヨット乗りで良かった)。   周りにクッションを置き、バスタオルで巻き、細いロープで縛った。    これなら手は痛くないだろうし 音も少ない。  フゥ!

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介護 Ⅸ 認知症

母の生家は、二十町歩の地主だった。  太平洋戦争が敗戦で終り、農地解放が始まるまでの話だ。 

 二十町歩の地主の家計は それほど楽なものではなかったようだが、両親も六人の兄弟姉妹も 家庭菜園を作る程度で、農作業をする事はなく 進学をし 卒業すると行儀見習いと称して 都会で ある程度成功した人の家でお世話になり、二三年を過ごした後 実家に帰り 花嫁修業?をした。  敗戦で実家の経済基盤は崩れたが、元来が農業なので 食べる物に困るような事はなかったし 昭和二十三年には兵役から復員した父と結婚して 実家を離れた。   昭和二十四年に長女を、二十六年に長男を そして三十二年に次男を儲けた。 誰でもそうだろうが 忙しい日々だが 張りのある生活だったようだ。現在、母の記憶はここらで止まっている。

 三人の子供がいる事は判っているが 私がその長男だとは判らない 私を呼ぶ時は ”ハゲた おじさん” と呼び(実際そうだが)、 ”最近は○○と会わぬがどうしているのかな” と相談して来る(○○とは私の名前デアル)。    記憶にある時代の話をする時の顔は 穏やかになり笑顔にもなるので、 例え 亡くなった筈の両親(私の祖父母)の近況を訊ねられても ”お元気ですよ” と答えねばならないし  ”お父さん(私の父)は今は何処カネ?”  と訊ねられても  ”今は出張ですヨ” と答えねばならない。         皆さんは 亡くなったとでも言えば 突然に笑顔は消え、表情は険しくなる。

 少しづつ 子供に帰っていく。 この状況もいつかは終わるのだろうが それが少しでも先になるように 祈っている。

 

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介護 Ⅷ 春は名のみの

母親がお世話に なっている特別養護老人ホームでは 季節に応じて色々な催し事をしてくれる。 単調な生活に刺激を与えるので 入所者も 家族も 喜んでいる。

今日は節分で豆まきがあった, 鬼に扮したスタッフに 豆を投げる ,各々が楽しそうに投げる姿を 見るのは家族としても嬉しい。  夕食時に母にその話しをすると もう忘れている。  一時間ほどかけて 夕食を済ますと 7時で,テレビではニュースが始まり  各地の豆まきの話しが始まった。                                                                                    

「今日は 節分で豆まきをしたネ」                                 「今日は節分だったかネ」                                     「ホーヨ 明日は立春じゃがナ」                                   「春なら暖かくなるかネ」                                      「まだまだヨ 春は名のみじゃ」

ここで歌わねば「春〜は名〜のみ〜の〜風〜のさむさよ〜 」   お馴染みの 早春賦 で 今でも母はこの歌が好きで最後まで歌える それも笑顔で。 早春賦の二番の歌詞はお互いに 知らぬので 一番の歌詞だけを 五回ほど合唱してから帰って来た。

明日は立春なので また合唱をせねば、は-るがきーた はーるがきーた の”春が来た”をチョット練習しておこう。

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介護 Ⅶ食欲

 ”オニーサン 私ぁ まだ晩御飯を食べてないがネ” 

 ”さっちゃん 今食べ終わったところですヨ”

 ”マータ そう言うて私をだまして 食べさせん気じゃな”

 ”それじゃあ あとでパンでも食べようかネー”

 ”イケン 今食べにゃあ 死んでしまう”

 笑い話ではなく 毎日の母との会話だ。   生きていればこそだが 母は絶えず空腹を訴える。 食前はもちろん、食後も腹が減っているらしい。     介護保険では食費に制限があり その中で色々の食事を出してくれる(ミキサー食なので内容はメニューを見る)。  有り余る量の食事ではないがそれでも ご老人は食が細い、殆どの人が 何割かを残す。

 四年間、ほぼ毎日 食事介助に行って思うのだが しっかり食事がとれぬご老人は やがてちがう病気になって行く。  介護施設から病院に移ったご老人で 再び介護施設に帰ってくる人は あまり多くはない。 認知症ではない ご老人が食事をせぬのはそれなりの理由があるようだが、認知症のご老人が食事をしないのには理由はない。  やりようによっては食べるし、時間をかければ食べる。

  介護施設は民間企業なので スタッフの数には制限があり、 人を集めやすい昼間ならまだしも、 夕食に一人の入所者に一時間付きっ切りで介助をする余裕はない。    担当者は ”大丈夫デス” とは言うが 実際にお任せすると、 五分こっちで、五分はあっち、になってしまって 結局は食事にならない(そのうちに本人は口を開けなくなる)。 

 一体に認知症のご老人は 言葉は荒くなり、ご機嫌はいつも良くない。 在宅で放置した、あるいは 手を上げてしまった 等の話を聞くと そのご家族の気持ちはよく判る。 機嫌よく 食事をしてもらおうと思うと、どうしても 一時間はかかる。  ようやく食事が終わったら 上記の会話が始まる。  アァー    

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介護 Ⅵ 成年後見制度

一年前から母親の成年後見人になっている。 申請から決定までに半年かかったが 代理人を頼むほど面倒な手続きではなかった。

まず,後見人になる人の審査 (後見人が生活できているかどうか、つまり 使い込みをせぬかどうか)、   被後見人の資産の確定,相続権者全員の同意書(資産の有無,多少は関係ない)、 被後見人の意志の確認,が必要で、    その後 後見人が確定されると 後見人は被後見人の生活全般に責任を持ち 資産の運用を行う。          決定から後の 被後見人に関わる費用は 被後見人の資産から支払う事ができる,決定以前の費用は 支払えない(もう少し早く申請されればよかったのに と家庭裁判所の 調査官は言った)。

私の場合は三年間 立て替え払いだったので それは弁済されない。 申請当時,母親はかなり認知症が進んでいたので 本人の意志の確認に一番時間と費用がかかった。             まず調査官が本人に面接し,本人の意志が確認できない事を確認し?,     裁判官が意思の確認ができぬ事を認定し、 そして本人の意志が確認出来ぬ 旨の診断書を まず 提出しなければならない。これは精神科医の仕事で、 裁判所でしかるべき精神科医を選定して依頼する。 その費用は申請人負担で 十万円近く,これを裁判所に支払う。

後見人の決定がおりると,その旨の登記が 法務局にされる。   自分に掛かる費用を 自分の預貯金から支払う手続きを  親子とは言え代理で行う場合は どうしてもこの制度を利用しなければならない。  夫婦間でも 同様で,他の家族には なるべく早く申請するように奨めている。   被後見人の現状認知がしっかりしていたら、上記の手続きは費用も含めてもっと簡単に行く。    動産 不動産そして預貯金の推移は 裁判所で確認するので 間違っても 他に使用する訳には行かない。 これは罪になる。

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介護 Ⅴ 手袋の訳

左手の訳
発病以来四年に なるので この左手に手袋をつけ始めて 三年と半年になる。

脳梗塞で倒れた母は、身体的には 下肢および 右上半身の麻痺が残ったが、左手の筋力は早い回復をみせた。  そして何故かは判らないが、強くなった左手で、看護士 介護士 そのほか私を含めて、近づく人間の 手を 足を 体を つねるようになった。 私は我慢をせねばならない、スタッフに問うと 私たちも我慢します との事だった。 介助で近づく人間の腕には 青痣がついてしまった。   そのうち それだけでは気がすまなくなったのか、ベッドサイドの壁紙を剥がすようになった すごい力だ。  段ボール紙を置いても 一晩の間に穴を開け、また壁紙を剥いでしまう。   ベッドを壁から離すと 壁に近づこうとして落ちそうになる(一度は落ちて、スタッフにえらく謝られた)。   壁の反対側には寄りかからない。

八月頃ではあったが 赤い手袋を持って行き 寒いからとつけたら気に入ってくれた。 これならつねられても 前よりは痛くない、 壁紙は剥げない。  こうして三年半、手の力は相変わらず強く 手袋の指先は 一ヶ月で穴が開く。 ただ左右一対の カラー軍手なので 有効に使える。

施設を替わる度に、手袋をつけている理由を説明し 納得をしてもらっている。  今のスタッフは親切で、ワッペンを付けてくれていて ここ二日は小鹿のワッペンの手袋だ。   アー可愛い模様だね ナンの模様かね?  と問うと こじーかの バンビーはー  と歌ってくれる。   腎不全や敗血症で熱が出て 苦しそうにしていた時を思うと、私は嬉しくなり 思わず合唱をしてしまう。     こじーかの バンビーはー

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介護 Ⅳ

現在特別養護老人ホームにお世話になっている母の食事は, ミキサー食と呼ばれる食事で  一度作った食事をミキサーにかけて ドロドロにしたものだ。 一般に 食べ物に含まれる水分は多く, そのままではドロドロと言うよりはサラサラに近い。  要介護五の ご老人は 押しなべて食物を飲み込む事が下手くそで(燕下 えんげ 障害) 時には食べ物を気管に入れてしまい  肺炎の元になり,死因にもなる。  六十代で総入れ歯にした母は  それでもずいぶん固い物を食べていた。

入院して普通食が始まってしばらくした頃, 歯が痛くて噛めぬと言い始めた。  多くの介護施設は往診してくれる歯科医と契約している。  歯科医をお願いし  入れ歯の調整をしてもらい その場は解決した。  一年後,同じ状態になった。  その時は前回とは違う施設だったが 同じように 契約している歯科医に往診を お願いした。  母は大分と認知症が進んでいた。 認知症ご老人の治療には ご家族に付き添いをお願いしたい,  前回同様 私が付き添い 手を押さえ,口を開けさせる役をひきうけたが こちらの思い通りには行かず 暴れた。 普段は力の無さそうな体にもかかわらず 歯の無い口で歯科医に噛み付き、動く上半身と左手で 暴れた。     歯科医は、入れ歯の修理は無理だと言った。

普通食からキザミ食、そして今はミキサー食。  この献立は何なのか、見ただけでは判断し兼ねる。キャベツととんかつが、一緒にミキサーにかかっている。 なので スタッフから必ず献立を聞く、すでに味覚は無いようだが  本人に説明してから口に持って行く(本人が理解しているかどうかは不明)。   食べ物がサラサラの時はトロミ(粘度を増す粉末)を入れて調節する、サラサラの物は飲み込む時に気管に入りやすい。

両親とも、生前は ボケて寝たきりになるよりは死んだほうがマシだ! と言っていた。私も今は私自身の事は そう思う。     だが母親に関しては 生きていて楽しいかどうかの問題では無く、 少なくとも死ぬよりは生きていた方が良いだろうと 思っている。

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介護 Ⅲ

私の父親は転勤のある職種で、会社ではしかるべき地位にあり 七十二歳まで仕事をしていた。   両親には三人の子供がいる、 姉、私、弟 だ。 西日本の範囲だが 其々 離れた町で家庭を持っている。   父親の退職に伴い、余生を過ごすところを 両親夫婦で思案した、皆でも相談したし、個別でも話し合った。  最終的には両親が決めた。     そして私の住む町で、同居はせず、私の家から近い、と言う条件の所に 家を買った。 ちなみに最後の住所は 神戸市 東灘区 田中町、JR摂津本山の駅を降りて 右に曲がった公園の近くだった。 引っ越したのは平成六年八月二十日、 翌年の震災の後に近所を訪ねる機会があり、現地を通ってみたら当時住んでいた家は、倒壊したと聞いた。

ともあれ、新居に越した両親は二人でよく出歩いた。当時は一週間に一度の割で訊ねていたが その度に 温泉地や観光地の土産を持たせてくれた。 平和で静かな二人の暮らしは、およそ五年ほど続き、父親は肺がんで亡くなった。            母は近所の知り合いは私たち夫婦しかいなかった。  私たちとの同居は望まなかったが 父が亡くなってからは毎日訊ねるようになった私に、その寂しさをこぼした。  早く家を出た私は、年老いた母親から寂しさを訴えられて 他に選ぶ手段はなく、三日に一度の買い物と、毎夕食に付き合う事を申し出た。   それから三年の後に母親は病気に倒れた。

現在母自身がどのように感じているかは斟酌のしようもないが、私自身は このくらいの事はしなくてはならないし、これくらいの事しかできない、と言う思いをもっている。 私の姉、弟は年に一、二度は顔を見せる。   似たような症状のご老人を家で介護している人も知っている。 頭が下がる思いだが、破綻をされる事のないように祈るばかりだ。

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介護 Ⅱ

父が七年前に亡くなった。 故あって地域の事情は判らず、近くに友人のいなかった母は全てを私に頼った。  当時、両親は私の家から車で五分の所に住んでいた。   母の兄弟、(私の叔父、叔母)は アナタのお母さんは今までが全部お父さんマカセだったから今度からはアナタがしっかりしないと、と言う事だった。   まず一人で買い物に行けぬ。 朝食、昼食はまだしも夕食を一人で摂る事を嫌った。 私と買い物に行き ,私に食事を作って食べさせるのが 一日の仕事になった。  他には何もしなければならぬ事はなく、私との団欒が生きがいになった。 一日に二度の夕食を摂るほど 私の胃は丈夫ではなく、家で夕食を摂る事は 以来三年間はなかった(これがマザコンか?)    私達夫婦しか知り合いがいない所に 越して来て 連れ合いを亡くした母に 私がしてやれる事は夕食を一緒にするくらいしかなかった。 私は全寮制の高校に行ったために十五歳で両親の元を離れた 母と二人差し向かいで食事をするのは おおよそ三十五年振りで、若干の気恥ずかしさはあったが、 父が亡くなって心細い母が 笑顔を見せるのは 嬉しい事だった。  その母が脳梗塞で倒れた!  これは何を差置いても (嫁の機嫌が多少悪くても、私の腹具合が悪くても) 出来るだけの介護はせねば。 父が亡くなって 母の一人暮らしの三年間 おおよそ千日 夕食をともにし、 自力で食事をしなくなった発病から四年 おおよそ千五百日 食事の介助をし、   その間 休んだのが 延べで二十日くらいか。

 まだまだ他には頑張っている家族がいるので 私が特に大変と言う訳ではない。  介護の実態とはこんなものだ。   明日は天気がよさそうなのでヨットで海に出るゾ!

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介護 1

介護
ヨットとはまるで関係はないが私事を, 87歳になる母は 現在特別養護老人ホームにいる。   4年前に脳梗塞を患い、1ヶ月の ICU での絶対安静状態を過ごし、2ヶ月の救急医療を受けたのち救急病院を退院した。   退院時の診断書には 下肢および右上肢の麻痺、発声困難、現状認知の困難。   救急の治療を終えて社会復帰ができる人もいるし、そうでない人もいる。 母は3ヶ月の治療では社会復帰ができるようにはならなかった。 救急治療を終えた老人の、次の受け入れ先は一般の病院ではない。 介護医療施設又は 介護療養施設と呼ばれるところだ。  そこで3ヶ月の治療と同じく3ヶ月のリハビリを受け、良くなればもちろんだが 良くならなくとも6ヶ月で退院の催促を受ける。  受入先があるかどうかは病院側の知る範囲ではない。 転院さきは家族あるいは回りの人間で捜さなければならない (病院からの紹介などと言うシステムは無い)。 一般に手間がかかる入所者は敬遠される (母は寝たきりではなく、意味のない言葉?を大声でしゃべり、経口食だが自分では食べない、おまけに下の世話)   家族としては受け入れてくれるならどこでも良い、と言う訳には行かない なにしろ自分の母親だ。   見かねる扱いの所は一週間で出た事もある。結局、施設は都合六ヶ所替わった、 他の家族の人と話すと、特別養護老人ホームに入るのは順番待ちで何年かかるか分からない と言う事だったので三年を経て今の老人ホームに入れたのは、運が良かったのかも知れない。

  一般に娘よりは息子の方がマザコンと言われる、そうかも知れない、入所者が圧倒的にご婦人が多いせいもあり 面会者は男性の方が多い。  かく言う私も毎日 夕食の介助に行く。 母は私を認識できない日が多いので、母のためと言うよりは 私自身のために行っているような気がする。  回りのヨット乗りは似たような年代なので、同じ経験をされたか、これからされるのだろう。  

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