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冬はタコじゃ!

冬はタコじゃ!
私のヨットが回遊する海域は瀬戸内海中部だ。  毎年十一月になるとイイダコが釣れ始める。

  仕掛けはいたって簡単で、写真のタコテンビンを糸の先につけて、海底を上下させるだけでタコが抱きついてくれる。 釣れ始める頃のタコは50グラム位で 十二月のなかばを過ぎると200グラムほどになる。 そして二月の声を聞く頃には釣れなくなる。

 場所はどこでも、漁師が底引き網をひかぬ所、勝手ではあるが錨の効きやすい所、なら釣れる。

 おまけに上手下手がなく、ゆだんをすると釣り過ぎてしまう 私は一回につき六匹までと決めているのだが、 先日 友人のご夫婦を招待して釣りに行ったところ 奥さんがえらく気に入って オモシロイと三十匹も釣ってしまった。 リリースの考えはなく全部をお持ち帰りになった。

 翌日に礼の電話があって訊ねたら、全部 大鍋で煮込んで何日かで食べるとのコト。 ジツはタコは イカと同じく墨を持っていて、朝の作業で マックロのナニが出るのだ。  あのご夫婦は数日間は マックロのナニを出されたのだろう。

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荀のぐち

荀のぐち
ある季節に一本釣りをして すぐに絞めたぐちは 煮付けによし,刺身によし,塩焼きによし,1番のお勧めは開きだ。 

 釣りの師匠であるS氏から、(今から釣りに行くヨ、) と電話があったのが午前八時半 (今は何が釣れますか?) (今ならグチが良いだろう) (スグ行きます!)  S氏は釣りのベテランで、ご自分の釣り船の稼働時間は ここ五年で五千時間を越える。  料理は私の方がベテランで(本職だ) 双方で教わりながら、教える。  二十五センチから三十センチが 数えてはいないが多分 五十くらい。

食べ方は まず一番のお勧めが軽く塩をふった開き。 それではその日に食べられないので二番目が刺身。 それから女房のアイデアの煮付け(これは案外とおいしい)。 まだまだあるので塩焼き(これもホコホコしてうまい)。

 スーパーでは下漁のグチは 多分、捕り方と締め方が悪い。 網で取った魚は上下左右から押さえられ、圧死の状態で苦しみながら臨終を迎える。  凡そ生き物の命を頂く側としては、ひどく手抜きのやり方で そんな魚がうまい訳がない。 釣ったその場で脊髄にナイフを入れて苦しませない。 血も抜けるだけ抜く。 それくらいはしないとグチのお母さんが悲しむ(と師匠のS氏と話している)。

 今日の漁のおかげで、おそらく明後日までは自然食を楽しめる。

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介護 Ⅵ 成年後見制度

一年前から母親の成年後見人になっている。 申請から決定までに半年かかったが 代理人を頼むほど面倒な手続きではなかった。

まず,後見人になる人の審査 (後見人が生活できているかどうか、つまり 使い込みをせぬかどうか)、   被後見人の資産の確定,相続権者全員の同意書(資産の有無,多少は関係ない)、 被後見人の意志の確認,が必要で、    その後 後見人が確定されると 後見人は被後見人の生活全般に責任を持ち 資産の運用を行う。          決定から後の 被後見人に関わる費用は 被後見人の資産から支払う事ができる,決定以前の費用は 支払えない(もう少し早く申請されればよかったのに と家庭裁判所の 調査官は言った)。

私の場合は三年間 立て替え払いだったので それは弁済されない。 申請当時,母親はかなり認知症が進んでいたので 本人の意志の確認に一番時間と費用がかかった。             まず調査官が本人に面接し,本人の意志が確認できない事を確認し?,     裁判官が意思の確認ができぬ事を認定し、 そして本人の意志が確認出来ぬ 旨の診断書を まず 提出しなければならない。これは精神科医の仕事で、 裁判所でしかるべき精神科医を選定して依頼する。 その費用は申請人負担で 十万円近く,これを裁判所に支払う。

後見人の決定がおりると,その旨の登記が 法務局にされる。   自分に掛かる費用を 自分の預貯金から支払う手続きを  親子とは言え代理で行う場合は どうしてもこの制度を利用しなければならない。  夫婦間でも 同様で,他の家族には なるべく早く申請するように奨めている。   被後見人の現状認知がしっかりしていたら、上記の手続きは費用も含めてもっと簡単に行く。    動産 不動産そして預貯金の推移は 裁判所で確認するので 間違っても 他に使用する訳には行かない。 これは罪になる。

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球状船首(バルバスバゥ)

球状船首(バルバスバゥ)海への出入りに商業岸壁を通る、近年の船はその殆どが 球状船首をつけている。 写真で見る戦艦 大和 にもついていたから 球状船首の歴史は、六十年を越えるだろう。

船の大きさによっても、設定するスピードによってもデザインは違うのだろうが、まだ理論が完成されていないのか 色々の形の球状船首を見る。  今日の写真の船の球状船首はどうだ。   下辺のシャクレ具合が何とも言いがたい。 左舷側の錨の納まり具合はあまり良くないが、それも妙にシャクレ具合とマッチして 生意気そうで良い。

球状船首を集めた写真集は見た事がないが、 実に色々の形があって面白そうなので 船が好きな人には いいコレクションになるかも知れない。

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救命胴衣

救命胴衣
ずいぶん前の話だが,ある雨の日に 沖から帰り, 陸に上がる途中の テンダーから海に落ちた事がある。当然にカッバの上下を着て ブーツを履いていた。  高校生の三年間 神伝流の泳法を 習った事があり, 速く泳ぐ事は 竸泳部にいた妻には敵わないが  浮き身には自信があった。  神伝流泳方には着衣で 水に入り 静かに浮く と言う方法があり,それも練習した事がある。  だからカッバを着て海に落ちても慌てはしなかった。 だが カッバの中に海水がサァーッと入るのがわかり 同時に すごい力で下に引っ張られた,足は動かない,手も動かせなくなった。 顔の上に海面が見える。 慌てた,慌てたが体は動かない 十秒か 二十秒か 三十秒は経ってないと思うが 友人が上で 引っ張ってステップに寄せてくれた。  自力でステップを伝ってデッキに上がる その距離がエラク長く感じた。 冗談ではなく 死ぬかとも思った。 帆走っている時でなくて良かったし、夜でなくて良かった。

それからは救命胴衣をつけるようになった。 時によって、日によっては つけぬ時があるが 必ず手の届く所に置く。  一度 ガスで膨らむタイプにしたら雨の日に 膨らんでしまったので 現在は釣具屋に売ってあったのを使っている ポケットが多く便利が良い。

落水事故で 助かるか、または助からぬかは、泳げるか泳げぬかとは、あまり関係はないと思う。  過去に数例、 先達の落水死亡事故があった。 教えを 無 にせぬためにも充分に気をつけたいものだ。

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介護 Ⅴ 手袋の訳

左手の訳
発病以来四年に なるので この左手に手袋をつけ始めて 三年と半年になる。

脳梗塞で倒れた母は、身体的には 下肢および 右上半身の麻痺が残ったが、左手の筋力は早い回復をみせた。  そして何故かは判らないが、強くなった左手で、看護士 介護士 そのほか私を含めて、近づく人間の 手を 足を 体を つねるようになった。 私は我慢をせねばならない、スタッフに問うと 私たちも我慢します との事だった。 介助で近づく人間の腕には 青痣がついてしまった。   そのうち それだけでは気がすまなくなったのか、ベッドサイドの壁紙を剥がすようになった すごい力だ。  段ボール紙を置いても 一晩の間に穴を開け、また壁紙を剥いでしまう。   ベッドを壁から離すと 壁に近づこうとして落ちそうになる(一度は落ちて、スタッフにえらく謝られた)。   壁の反対側には寄りかからない。

八月頃ではあったが 赤い手袋を持って行き 寒いからとつけたら気に入ってくれた。 これならつねられても 前よりは痛くない、 壁紙は剥げない。  こうして三年半、手の力は相変わらず強く 手袋の指先は 一ヶ月で穴が開く。 ただ左右一対の カラー軍手なので 有効に使える。

施設を替わる度に、手袋をつけている理由を説明し 納得をしてもらっている。  今のスタッフは親切で、ワッペンを付けてくれていて ここ二日は小鹿のワッペンの手袋だ。   アー可愛い模様だね ナンの模様かね?  と問うと こじーかの バンビーはー  と歌ってくれる。   腎不全や敗血症で熱が出て 苦しそうにしていた時を思うと、私は嬉しくなり 思わず合唱をしてしまう。     こじーかの バンビーはー

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六島の灯台

六島の灯台
六島灯台,岡山県で最初の灯台で 1922年に完成した とあり, 現在は無人 灯質は 等明暗白光 六秒, 光達距離は二十二海里, 光源の高さは水面から七十メートル。

今のような乗り方をする以前は ヨットレースを一生懸命にしていた。 航行区域の範囲でよく動いた,ヨットレースの始まる時刻までには 現地に到着しなければならない。  アマチュアのヨット乗りがレースのための 回航に使える時間は,仕事を終えてからの時間になる,休んでまでは若干無理がある。 どうしても回航は夜間になる時が多い, 西に行く時も 東に行く時も 勿論帰って来る時も この灯台にはお世話になった。  

今はGPSが手に入り易くなったが  当時あった  ロランCは 信頼も出来なく また 高価で 私達には買えなかった。  夜間は目を それこそ皿のように丸くして、灯浮標の光を捜しながら薄暗いコンパスを見つめた。   光を見つけると時間を計る、夜なので時計は見えない   当時のCMソングで すかっとさわやかコカコーラ  という歌があり、ゆっくりと歌うと 丁度 十秒になる。  この歌を丁度十秒で歌うことは 私たちの航海術のひとつだった。

六島と 向かいにある 四国、荘内半島との間は潮通しがよく、季節になると 夜光虫がヨットの作る波に反応して 光る。  住む町に比べて 光る星の数は桁違いに多い。   朝になってレース海面にたどり着き、レースを終えてまた仕事が始まるまでに 泊地に帰る。  あのような乗り方ができた頃を思い出しながら 灯台を降りてきた。 

   http://kawanishi.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/post_cf1d.html

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介護 Ⅳ

現在特別養護老人ホームにお世話になっている母の食事は, ミキサー食と呼ばれる食事で  一度作った食事をミキサーにかけて ドロドロにしたものだ。 一般に 食べ物に含まれる水分は多く, そのままではドロドロと言うよりはサラサラに近い。  要介護五の ご老人は 押しなべて食物を飲み込む事が下手くそで(燕下 えんげ 障害) 時には食べ物を気管に入れてしまい  肺炎の元になり,死因にもなる。  六十代で総入れ歯にした母は  それでもずいぶん固い物を食べていた。

入院して普通食が始まってしばらくした頃, 歯が痛くて噛めぬと言い始めた。  多くの介護施設は往診してくれる歯科医と契約している。  歯科医をお願いし  入れ歯の調整をしてもらい その場は解決した。  一年後,同じ状態になった。  その時は前回とは違う施設だったが 同じように 契約している歯科医に往診を お願いした。  母は大分と認知症が進んでいた。 認知症ご老人の治療には ご家族に付き添いをお願いしたい,  前回同様 私が付き添い 手を押さえ,口を開けさせる役をひきうけたが こちらの思い通りには行かず 暴れた。 普段は力の無さそうな体にもかかわらず 歯の無い口で歯科医に噛み付き、動く上半身と左手で 暴れた。     歯科医は、入れ歯の修理は無理だと言った。

普通食からキザミ食、そして今はミキサー食。  この献立は何なのか、見ただけでは判断し兼ねる。キャベツととんかつが、一緒にミキサーにかかっている。 なので スタッフから必ず献立を聞く、すでに味覚は無いようだが  本人に説明してから口に持って行く(本人が理解しているかどうかは不明)。   食べ物がサラサラの時はトロミ(粘度を増す粉末)を入れて調節する、サラサラの物は飲み込む時に気管に入りやすい。

両親とも、生前は ボケて寝たきりになるよりは死んだほうがマシだ! と言っていた。私も今は私自身の事は そう思う。     だが母親に関しては 生きていて楽しいかどうかの問題では無く、 少なくとも死ぬよりは生きていた方が良いだろうと 思っている。

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水仙の島 六島

水仙の島 六島
岡山県笠岡市 六島の島起こしのテーマは あちらこちらに植えてある水仙だ。

例年は、年末あるいは一月にその満開を迎えるので 友人のヨットと島で待ち合わせて 水仙の散策に島を回ってみた。  今年は冬の冷え込みが遅く、開花の時期が遅れていて まだ五部咲きくらいだった。 通りかかった人に尋ねると 二月の中旬頃だろうとの話だ。   以前は雑木が生えていた場所を開墾したり、畑だった場所を転作して 水仙の株が植えつけられている。  港から六島灯台に上がる道すがら(四、五百メートルか?)には 多数の水仙が咲き誇り(時期なら)、灯台まで上がれば 東は瀬戸大橋から 西は高井神島までの 瀬戸航路が見える。

六島には二箇所の港がある。 北側の湛江港と 南東側の前浦港だ、 其々の目標は 天理教の教会と お寺だ。  前浦港には定期船の桟橋があり 空いている時間なら係留ができる。 冬の風が身にしみるが三四箇所にカイロを貼って 出かけてみてはいかがだろうか。

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瀬戸内の真ん中

瀬戸内の真ん中
左側が岡山県笠岡市 大飛島(オオビシマ),右側が子飛島(コビシマ)。南東から見た所。

私が遊ぶ瀬戸内は潮流が速い。 その出入り口は三ヶ所、紀伊水道、豊後水道、関門海峡、入り口としては河川もあるが 残念ながら流量豊かな河川は瀬戸内には無い。  三ヶ所から流れこんだ海水は複雑な流れ方をしながら、 ここ大飛島と 小飛島のあいだでぶつかり合い満潮を迎える。 そして再び複雑な流れを作りながら、この島の中間を境に、東西に流れ 分かれて出て行く。  島と島の間は、約千メートル、大潮の干底では大飛島側から小飛島にむけて 三百メートル近く砂浜が出現し、面白い風景ではあったが 浜が隠れた時には通過しにくい場所だった。二十年ほど前の話だ  現在は同じ時刻でも 出現する浜は かつての三分の一 ほどもない。 

白砂青松の瀬戸内は、砂の海だった。 もちろん良い事ばかりではなく、砂州に乗り上げる船はあとを絶たず 折からの高度成長の背景もあって 埋め立て用として、建築用として、掘った 掘った 多分四十年以上にわたって掘った。  今、近くの浜はどこも痩せている、中国からの砂を買って 入れている海水浴場も近くにある。

経済成長とは反面で自然破壊の事で、先進国になるという事も反面、自然を壊さなければならないのだろうナ と思いながらこの島の間を 今日も通って来た。

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介護 Ⅲ

私の父親は転勤のある職種で、会社ではしかるべき地位にあり 七十二歳まで仕事をしていた。   両親には三人の子供がいる、 姉、私、弟 だ。 西日本の範囲だが 其々 離れた町で家庭を持っている。   父親の退職に伴い、余生を過ごすところを 両親夫婦で思案した、皆でも相談したし、個別でも話し合った。  最終的には両親が決めた。     そして私の住む町で、同居はせず、私の家から近い、と言う条件の所に 家を買った。 ちなみに最後の住所は 神戸市 東灘区 田中町、JR摂津本山の駅を降りて 右に曲がった公園の近くだった。 引っ越したのは平成六年八月二十日、 翌年の震災の後に近所を訪ねる機会があり、現地を通ってみたら当時住んでいた家は、倒壊したと聞いた。

ともあれ、新居に越した両親は二人でよく出歩いた。当時は一週間に一度の割で訊ねていたが その度に 温泉地や観光地の土産を持たせてくれた。 平和で静かな二人の暮らしは、およそ五年ほど続き、父親は肺がんで亡くなった。            母は近所の知り合いは私たち夫婦しかいなかった。  私たちとの同居は望まなかったが 父が亡くなってからは毎日訊ねるようになった私に、その寂しさをこぼした。  早く家を出た私は、年老いた母親から寂しさを訴えられて 他に選ぶ手段はなく、三日に一度の買い物と、毎夕食に付き合う事を申し出た。   それから三年の後に母親は病気に倒れた。

現在母自身がどのように感じているかは斟酌のしようもないが、私自身は このくらいの事はしなくてはならないし、これくらいの事しかできない、と言う思いをもっている。 私の姉、弟は年に一、二度は顔を見せる。   似たような症状のご老人を家で介護している人も知っている。 頭が下がる思いだが、破綻をされる事のないように祈るばかりだ。

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介護 Ⅱ

父が七年前に亡くなった。 故あって地域の事情は判らず、近くに友人のいなかった母は全てを私に頼った。  当時、両親は私の家から車で五分の所に住んでいた。   母の兄弟、(私の叔父、叔母)は アナタのお母さんは今までが全部お父さんマカセだったから今度からはアナタがしっかりしないと、と言う事だった。   まず一人で買い物に行けぬ。 朝食、昼食はまだしも夕食を一人で摂る事を嫌った。 私と買い物に行き ,私に食事を作って食べさせるのが 一日の仕事になった。  他には何もしなければならぬ事はなく、私との団欒が生きがいになった。 一日に二度の夕食を摂るほど 私の胃は丈夫ではなく、家で夕食を摂る事は 以来三年間はなかった(これがマザコンか?)    私達夫婦しか知り合いがいない所に 越して来て 連れ合いを亡くした母に 私がしてやれる事は夕食を一緒にするくらいしかなかった。 私は全寮制の高校に行ったために十五歳で両親の元を離れた 母と二人差し向かいで食事をするのは おおよそ三十五年振りで、若干の気恥ずかしさはあったが、 父が亡くなって心細い母が 笑顔を見せるのは 嬉しい事だった。  その母が脳梗塞で倒れた!  これは何を差置いても (嫁の機嫌が多少悪くても、私の腹具合が悪くても) 出来るだけの介護はせねば。 父が亡くなって 母の一人暮らしの三年間 おおよそ千日 夕食をともにし、 自力で食事をしなくなった発病から四年 おおよそ千五百日 食事の介助をし、   その間 休んだのが 延べで二十日くらいか。

 まだまだ他には頑張っている家族がいるので 私が特に大変と言う訳ではない。  介護の実態とはこんなものだ。   明日は天気がよさそうなのでヨットで海に出るゾ!

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介護 1

介護
ヨットとはまるで関係はないが私事を, 87歳になる母は 現在特別養護老人ホームにいる。   4年前に脳梗塞を患い、1ヶ月の ICU での絶対安静状態を過ごし、2ヶ月の救急医療を受けたのち救急病院を退院した。   退院時の診断書には 下肢および右上肢の麻痺、発声困難、現状認知の困難。   救急の治療を終えて社会復帰ができる人もいるし、そうでない人もいる。 母は3ヶ月の治療では社会復帰ができるようにはならなかった。 救急治療を終えた老人の、次の受け入れ先は一般の病院ではない。 介護医療施設又は 介護療養施設と呼ばれるところだ。  そこで3ヶ月の治療と同じく3ヶ月のリハビリを受け、良くなればもちろんだが 良くならなくとも6ヶ月で退院の催促を受ける。  受入先があるかどうかは病院側の知る範囲ではない。 転院さきは家族あるいは回りの人間で捜さなければならない (病院からの紹介などと言うシステムは無い)。 一般に手間がかかる入所者は敬遠される (母は寝たきりではなく、意味のない言葉?を大声でしゃべり、経口食だが自分では食べない、おまけに下の世話)   家族としては受け入れてくれるならどこでも良い、と言う訳には行かない なにしろ自分の母親だ。   見かねる扱いの所は一週間で出た事もある。結局、施設は都合六ヶ所替わった、 他の家族の人と話すと、特別養護老人ホームに入るのは順番待ちで何年かかるか分からない と言う事だったので三年を経て今の老人ホームに入れたのは、運が良かったのかも知れない。

  一般に娘よりは息子の方がマザコンと言われる、そうかも知れない、入所者が圧倒的にご婦人が多いせいもあり 面会者は男性の方が多い。  かく言う私も毎日 夕食の介助に行く。 母は私を認識できない日が多いので、母のためと言うよりは 私自身のために行っているような気がする。  回りのヨット乗りは似たような年代なので、同じ経験をされたか、これからされるのだろう。  

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トイレ考 ①

トイレ考春の花見に始まり、お決まりの夏の海水浴、秋の鯵釣り、そして冬のタコ釣りまで 男女を言わずゲストがヨットにやって来る。 二、三時間 一日 どうしてもトイレは必要になる。 ヨットのトイレは水洗式?だ。 水は(イ)を通りポンプに吸い込まれ、トイレのボールを抜け再びポンプに吸われて(ロ)を通って自然に帰る。 実際の使用時は、  A女がドアを開け入室、(イ)を開けてポンプのスイッチを押しボールに水を半分溜める、しかるべき所作を行う、次は(ロ)を開けてポンプのスイッチを押す、ボールの中の水がナニと一緒に全部無くなったら終了。  ナニかのナニが残ったら、(ロ)を閉めてポンプのスイッチを押す(ボールに水が溜まる)、再び(ロ)を開きポンプのスイッチを押す、ナニもカも無くなったら(イ)(ロ)を閉める、 そしてA女がナニ喰わぬ顔で出て来る。 これが中々スムースに行かない事は 皆さんご存知ですナ。

     http://kawanishi.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_73d2.html

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